嘘でしょ?
信じられない、もう逃がさないから
061:信じない、信じたくない
敗軍の兵として地下に息をひそめながら、それでも日々の雑事を片付ける。抗いや戦闘を常々行っているわけではない。人が集まれば維持や管理が必要になるし雑務も増える。腰の重い上層部の評判がよくないのを複雑に思いながら機をうかがう。張り巡らせていても、それ以外何もしないということは藤堂の性質が許さない。気にかかるし忙しいだろうと思えばどんな雑務や使い走りもする。上に構える人間ばかりでは組織が組織として機能しない。藤堂は組織が成り立つには人が要ると考えている。目立つ戦績がなくとも一兵一兵の集まりが必要なのだと思う。船頭ばかりが何人いても漕ぎ手がいなければ船は進まないし下手をすれば沈む。その中で自分の位置が扱いづらいのも判っているつもりだ。兵からは将として見られるためか階級以上の影響が及んでしまい、ある面では孤立を呼んでもいる。下からは上に見られるが上からは下に見られる。半端だ。二つ名がついてしまう戦績がついてまわるから余計に厄介だ。藤堂は密やかに嘆息した。
だから自ら買って出た使い走りの戻り道で声をかけられたときは少し驚いた。藤堂中佐、とかけられた声はまだ年若いゆえに不安定な高さを帯びている。振り向くとまだ学生であるだろう年齢の少年が駆け寄ってくるところだった。亜麻色の髪は外に向けて跳ね、毛先は蜜色に透ける。薄蒼い双眸は年齢に不似合いなほどの落ち着きを見せる時がある。体つきは細いが貧相なわけではない。上等な血統であると聞いているが当人はあまりそれを主張しない。
「君は」
そこでふんわりと柔くぬるい感触が唇に押し当てられた。濡れた舌先が唇をなぞってから軽く食まれた。藤堂の方が丈があるから下を向かされている。気づかせない自然な動きで繊手が藤堂の頬に添えられ、友好的だが逃がさないだけの強さで向きを固定していた。ちゅ、と濡れた音をさせて離れた桜唇が艶めくようにつやを帯びていて少し怯んだ。肌が白いのだ。白皙の美貌である。
「驚きました?」
年少に特有のちょっとした傲慢さだ。小首をかしげるだけで嬌態になる。戦闘機乗りであるし腕も立つのだがちょっとしたほころびが彼の年齢をうかがわせる。
「……とても驚いたが」
今度こそ彼が声を上げて笑った。……何かの罰ゲームでも? 構成する男女比率に偏りがあってもこういった悪ふざけがこんな年少にまで浸透しているとなると少し困る。嫌悪というより困惑に近い。経験がないとは言わないがこういうことが苦手な性質なのは判っているつもりだ。ひらひらと細い手が振られた。違います違います。あっさりと覆されてさらに惑う。軽視や侮蔑の末の行動とも思えない。なにか厳しく叱りつけすぎたことがあったのだろうかと密かに悩んだ。
「藤堂中佐に触れたくて」
「私にか? 何の面白みもないが」
軍属としての体躯である。階級に見合うだけの戦闘力を維持するために鍛錬は欠かさないし、武道を教えていたこともある程度の腕はあるつもりだ。だが触ったところで何が良いのか判らない。ただの男の体躯である。
「……触るのと、さっきの事とどういう関係が」
「キスしたくて」
さらりと当たり前のように言われた。こういう齟齬は朝比奈にも感じる部類のもののようだった。藤堂が判らぬ教えてくれと言っても朝比奈の説明は感覚的過ぎていた。それに似ている。
「……何故私なんだ」
結局同じ問いを繰り返しているが嫌そうな顔もされない。交渉や嗜好にまで言及や束縛をしようとは思わないが並程度の、それも何の洒落っ気もない武骨な己が何故選ばれたのか理解に苦しむ。女性ではないから体だって柔らかさもない。美貌でないし、愛くるしさや庇護欲とは縁遠いなりだ。そういうとにこにこ笑っていた、そのままに言われた。天然モノってみんなそう言いますよ。天然。おうむ返しにもハイと返事をされた。
繊手が滑って藤堂の軍服を撫でそのまま腕を回される。ぎゅう、と抱擁される。名前、呼んでください。
「呼び捨てて。藤堂さんに、呼んでほしいんだ」
言葉遣いも綻んでいる。思うところがあるのだろうと咎めない。判断するべきは言葉の意味や内容であって言葉尻ではないのだ。
「……ライ」
すり、とライが頬を寄せる。抱きついて頬を寄せるのはまるで子供だ。いや子供でよいのかと思い直す。大人とも子供とも言い切れないライは記憶がないといい年齢も推測だ。年少であるのに――老成したような倦んだ目をするときがある。それは彼の血統の所為かもしれないし、失くしてしまった荷物の所為かもしれなかった。ぽん、とライの頭を撫でる。亜麻色の髪を梳くようによしよしと撫でる。
「……すごい複雑です。子ども扱いですか」
はっとして思わずびくりと手が跳ねた。以前に町道場の師範として子供たちを教えていた経験があるからあしらいがつい子供相手のようなものになる。朝比奈あたりにはいつも拗ねられる。
「すまない、つい」
くせが抜けきっていないのだろうな。くせ。道場に籍を置いて子供の面倒を見ていた時期があった。
「…僕も教えてほしいな……剣道、とかです?」
そうだな。僕、剣道の経験ないですよ。そうなのか、朝比奈がしきりに手合わせしたがっていたぞ。私も興味がある。……素人と実力者じゃ相手にならないです……。素人とは思えないが。覚えてないです。体で覚えていることもあるだろう。
ライはずっと抱き着いたままだ。苦しくも痛くもないが引きずって歩くわけにもいかない。いつまでこのままなんだ? 充電中です。落ち着かせようと必死なんです。朝比奈と同じことを言うものだな。思わず笑うと蒼い目が一瞬だけ睨むように見上げた。
「もしかして皆にそういう対応」
「対応?」
抱きついたりキスしたりしてくるのは。好きにさせている。私などで間に合わせになるなら構わない。ライの気配がもの言いたげにもどかしげだ。
「ライ?」
「……ずるいです、それ」
「朝比奈にも言われるが」
藤堂は意味が判らない。何やら不服があって、責められているのは判る。だがそれだけだ。充電したいと言って抱きついたり唇を重ねたりする。藤堂を責めるのにやめることはない。私は蓄電池でも電源でもないのだが。そう思ったからそう言うとライが脱力した。深いため息がちくちくと痛い。
「……まあ、あの、判らないままでいてください」
君は朝比奈と同じことを言うがどういう意味だ。それこそ判らないままでいてください。むぅと不満げに唸ってもライは口を割らない。
同列扱いで、候補に挙がってもいない、か。うぐぐ、とライが歯噛みした。
「あの、藤堂中佐の中でキスとはどういうものになってます?」
突然の問いとその内容に藤堂の体がびくっと跳ねた。うーんと考え込んだ後に慎重に言葉を紡ぐ。
「色恋沙汰の一つだと判ってはいるのだが…」
「だが?」
何が楽しいのか判らないが酒の席でたらいまわしにされる。まあまともでいる者の方が少ないくらいに酒が進んでからだが。酩酊しているから私だと思っていないのだろうな。状況を思い出しながら言う。悪ふざけ以外のなにものでもないそれらに、酒に強く潰れない所為かよく巻き込まれる。酔っ払いの世話を焼いている時によく仕掛けられる。しれっと言ってのけた藤堂にライがぽかんと目を瞬かせた。
「……お酒に強いんですね」
「弱くはないと思うが…気づくとまわりが潰れているから」
間の抜けた問いだったが返答も間抜けている。しかもどこかズレている。色恋沙汰の中に僕も混ぜてください。酒宴の悪ふざけにか? 違う、けど、違わない、ような。煩悶するのを藤堂は呆けたように見ていた。ライの煩悶が色恋沙汰だが悪ふざけだと片づけたそれの所為だとは判る。だがそういう話は苦手なのだ。押すがいい引くがいいの加減どころかどうしたらよいかも判らない。交渉や戦闘の中に身を置いて、そういうことの方が向いている。色恋を否定するつもりはないが、自分が対処できるかどうかは別の問題だ。だから矛先がなんとなく向いているなと思うと逃げる。今回もそれのようだった。ただ、相手がライである。年少のものが迷い込むにはまずいのではないだろうか。
藤堂の懊悩は表層に現れない。思うことがあっても顔に出ない。それをライはどう取ったのかその聡明そうな目を向けて、ぱっと抱きついていた腕を解いた。藤堂が何か言おうとする唇に細い指先が触れて留める。挑戦的な微笑を浮かべたライが口を開く。
「特別になります。悪ふざけの領域から抜け出しますから」
唸るような返事しかできないから口を閉じたままでいる。僕の憧れもあなたの庇護も、色恋沙汰に押し上げて見せますから覚悟してくださいね。想像以上に手ごわいですね。ライの言葉とともに指先が離れていく。
「どういう」
「宣戦布告です」
冗談ではないようだった。反応の鈍い藤堂をおいて、ライは踵を返す。想像以上だった、信じられない。そんな呟きが聞こえてきて何やら事は済んだことは済んだのだと。あ、そうだ。ライの声にびくりとする。まだ何かあるのか。
「特別って言うのはアイシテルの分類の特別ですから」
荷物を落としそうになって慌てた。あたふたする藤堂をライはもう振り返らずに襲来してきたときのように去っていった。不思議と嫌悪はなかったが手を焼きそうな気配は感じた。たらりと汗が肌の上をすべるのが鮮明だ。私はどうすればいいのだ。思考がぐちゃぐちゃに渦を巻いてしばらく立ち尽くした。
《了》